2010年4月30日金曜日

いや、まだまだ問題はあるんだけど、

4/30「高校無償化:朝鮮学校は含まれず」@毎日新聞

もうすぐ朝の5時で、4時間後にはMTGがあって、
期末週間なのだけど、このニュース。

タイトルからして、朝鮮学校だけが、注目されているような気が
するのだけど、ちょっと、後半!!!

「告示されたのは・・・政府が日本の高校に類する過程と認定した・・・
国際的な評価機関の認定を受けたインターナショナル・スクール17校。

気になり過ぎて、文科省のサイト行って調べてみたら、


載ってる!!!

(他の学校で、つづり間違っているとことかあるんけど、、、)

何、ってことは、毎年ママパパ宛てに送られてきてた、子どもを学校に
行かせろよって手紙from文科省、なくなるってこと?

学校として認められていなかったから、あんなは「帰国」後、
インターだったから学校に行っていたことになっていなかったワケだけど、
学校行っていたってことに、なるの?

ついでにインターに通わせるのにも、助成金出るの?
私立と同じ扱いになるのかな。

朝鮮学校への差別が残っているのは、そうなのだけど、
それでも、インターに子どもを通わせることによって、差別を
受けていた人たちは、少し救われるのでは。

2010年4月26日月曜日

ひょっこりひょうたん島の博士。


このブログの名前も、この人のブログからパクらせてもらっている、

おじいちゃんと金髪の若者、二人もひょっこりひょうたん島の博士のメガネ。

井上ひさし氏へのトリビュートなのか、スコット。
そしてそして、東京、もっとオシャレな人いるでしょー!


通訳の先生にもらったのだけど、井上ひさしの言葉で、

「むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに」

って言葉は、好きってか、通訳している時でも、何か書いている時でも、
重要なのは、内容・何を伝えるかではなく、
どう伝えるかなんだなーって、思い出させてくれる言葉。

実際、通訳で言語能力の重要さ・役割りなんて、20%未満なんだって。
あとの80%は、いかに伝えるか、パッケージであって。
良い通訳とは、どれだけその言語が話せるかだけでなく、相手に
分かりやすいように伝えられるかどうかで決まる。
あらためて考えてみたら当たり前なのだけど、ね。


帰国が迫りつつある最近、盛りだくさんです。

ちょっと前にEducation Access Coalitionのシンポで発表した
詩を、先生に褒められ、ココのWomen's Studiesの学部の賞に
応募したらー?言われたから、応募してみたら、
なんと、賞もらっちゃいました@ちゃっかり奨学金まで。@$50とかだけど。

Creative Achievement Awardで、
In recognition of exceptional achievement in creative, artistic, and personal expression contributing to Women's Studies Scholarship.

だって。
嬉しいねぇ、書いてみるもんだね、投稿してみるもんだね。

おセンチ過ぎて恥ずかしいのだけど、

先学期の抵抗の文学の書き方を教えてもらった授業を
受けていなかったら、
その授業での色んな他の学生との出会いがなかったら、

11月にボストンで会ってもらったI先生に、誰かの存在を不可視化して
しまっているのではないかって常に考えるのも重要なことだけど、
自分の与えられている機会は使うべき「特権」として理解して;与えられているものを
利用して進んでいくんだよって、背中を押してもらうことがなかったら、

ワルシャワで勉強しているAnnaちゃんみたいにストレスで落ち込んでいる
時に、優しく気にかけてくれる、尊敬出来る先輩がいなかったら、

先学期の先生と、今学期の先生に語るんだって、いっぱいいっぱい、
自分の勉強していることを発表していくんだよって教えて励ましてもらうことがなかったら、

(そして何度も何度も、書き直しのプロセスに付き合ってもらい、、、)

今ココで、勉強させてもらう機会に、
それを許してくれて、応援してくれる家族に恵まれて
いなかったら、ありえなかったワケで、

その偶然に偶然が重なって、賞をもらうまでに至ったことを
考えていると、幸せもの過ぎて、一緒に賞もらった、先学期から
ずっと一緒に勉強してきているアリーとほろり泣いてしまい。

アリーも超アメリカンなギャルなんだけど超勉強家で、
アメリカ共和党のSarah Palinとかに見られる、保守的ってのかな、
アンチ中絶の語り(最近は子どもが産まれる前に、「障害」を
持って産まれてくるかどうか検査すること出来るじゃない)を、
障害(者)理論×クィア理論的視点から批判をした論文で賞をもらっていたよ。

あんなの幸せをいつも思っていてくれているママにも後から
伝えて、喜んでもらえて、嬉しかったなぁ。


今日はおばあちゃんからお手紙が。

「あなたが詩を朗読したり、論文を学会で発表したりすると書いてあって、
私は本当にうれしくて涙が出そうでした。私の夢をあなたが実現して下さった
みたい。いつかその詩や論文を読ませてもらいたいと思いました。」

夢を実現させてもらっているのは、あんなの方なのに、
おばあちゃんにもそれを喜んでもらえて嬉しいなぁ、と。

2010年4月23日金曜日

良い映画2本。


最近観た良い映画二つ。


一つ目はドキュメンタリ。

オハイオ州コロンバス(オハイオ州立大学がある場所でもある、ってことは、
先輩が交換留学で行ってた学校になるんだ!って今気付いた)は、

50年代、低所得者の人たち、まぁ、多くの黒人が住みつくように
なっていた住宅街なのだけど。

'oo年代、いきなり裕福な白人ゲイたちが入ってきて、
そこらの住宅を購入しようと、ゲイ・コミュニティを作ろうと、街を
乗っ取ろうとしていった(今も続いているけど)プロセスを描いた作品。

タイトルの"flag"旗は、ゲイのカップルたちが家の前にかかげるようになった
レインボーの旗と、それに対抗して、黒人の人たちも自分たちのアメリカ
南北戦時代の、旗をかかげるようになった旗から。

金持ち白人、ピンクのラルフローレンのポロシャツの襟立ててる
日サロ焼けしまくってるゲイたちは、道端でホームレスの人に
出くわしたり、夜の銃声とか聞いて、こんな荒れている場所で、
ボクたちのコミュニティが作れるワケない
じゃない!出ていって!って態度で。

対して、黒人の人たちも、ココはずっと俺たちの土地だったんだ、
お前らオカマみたいな変態なヤツらは入って来るんじゃねえ!って態度で。

でも声を上げて、戦うことも出来ないのは、難病持ちで治療費と
家賃の請求でどうしようもない状態に追い込まれている、底辺の人。

一人の、そんな女性の視点からも描かれているんだけど、
うん、うまく言葉に出来ない。観よう!

ボスニアの大虐殺の、民族浄化"ethnic cleansing"のプロセスに
例えていて、色んな視点から描かれていて、良かった。

二つ目は"Shortbus"『ショートバス』って映画。
監督はヘドウィグの、John Cameron Mitchell。
キャストは公募で行われて、台本もほとんどなしで、「クィア界」の
セレブなドラァグだったり、理論家だったりが出演していて。


主人公の一人のアジア系女性は、カナダでDJやってる人とか。

セックスの多い映画ってかむしろポルノ映画だから、所属していた
ラジオ局から反対があったりしたらしいけど、クィア界の著名人
(09年にリリースされたドキュメンタリじゃない、ショーンペンの
"Milk"『ミルク』の監督のGus Van Santとか)がラジオ局に
抗議の手紙みたいなんとか出して、出演許可されたとか。

セットも「USクィア界」的には超ゴーカで、一つはNYで起きたAIDS現象に
ついて論じているMichael Warnerの自宅とか!

舞台はいちよう、ポスト9/11のNYってなってるんだけど、

(よってポストAIDS、ポストNYのGiuliani市長による中産階級化)

実際のセリフに、

"It's just like the '60's. Just with less hope."

「60年代みたいなモノよ。ただ将来がないってだけで。」

みたいにあるみたいに、ヒッピーな60年代を彷彿とさせる感じあったり、
アニメーションで(Mitchellはこの手法をよく使う)ファンタジックな雰囲気があったり、、、

そのファンタジックな感じは、物事のtemporalityを表わしていて、
その未来のなさは、90年代のAIDSパニックのころとしても解釈
出来るのでは?って意見も授業では出たのだけど、確かに、
ミュージカル映画RENTのポルノ版、のようにも感じられた。

NYでいちばんAIDSが騒がれいた70~80年代にかけて市長だったEd Kochは、
今はもう亡くなられているのだけど、KochはそのAIDSの騒ぎのころ、
何も対策を打たなかったのは、積極的に取り組むことによって、逆に
ゲイだって思われたくなかった・バレたくなかった;クロゼットclosetedだって
ずっと疑われている市長なんだけど、Ed Kochのキャラクターも出てきたり。

あー、去年観た、『愛のむきだし』以来、良い意味でぐっちゃぐちゃなって、
ぐるぐる考えさせられる、長いんだけど何度も何度も観たい思った映画だ。

気になったのは、最後にぱーっと、みんな解放されるのと、
SM文化の表象のされ方ぐらいかなー。

主人公の一人の女の子が、SMの女王様で、「本当の自分」を
うまく表現出来ない、人とうまく関係を持てない、みたいな語りだったのだけど。

あーまり好きじゃなかったかな、その読み方は。

もっとSM文化って、複雑だと思うんだよなー。
「痛み」×「恥」×「侮辱」・・・=快楽;
「痛み」が欲望の対象であるとことか。

あと最後みんなひゃっほうーって解放されるのより、
複雑なままで、みんな傷ついたままのが良かった、ってワケじゃないけど、
そんな単純じゃないでしょう、みんな救われるのなんてない、
誰かが承認され、救われるとき、誰かはそのプロセスによって、なお周縁化され、
なお傷つくことだって、あるんだから、ってのを、表現して欲しかったのかな。
(だって実際そうじゃない)

東京に戻るので何が楽しみって、またお気に入りの映画館に行くことなんだな。

アップリンクでは『アリ地獄のような街』、
ポレポレでは『ただいま』、『アヒルの子』、『LINE』、
ユーロで『クロッシング』、
早稲田でフランス映画、
イメージフォーラムでジジェクの映画ガイド(ジジェクとは友達の友達=みんな友達な関係笑)、『ビルマVJ』、
岩波で『パリ20区、僕たちのクラス』、
ライズでやってる名画座ので『トレインスポッティング』@初めて観たのは10歳、
ギンレイで母の日企画のつもりなのだろうけど、母の日には重いだろうな映画2本、
アテネ・フランセでアメリカ映画のパフォーマティヴィティと「時間」の、、、

それでそれで、あの映画館に行った帰りにはあそこのカフェに行って、、、

ここでの生活もあと2週間って思うと、とてもとても悲しくなるけど、
東京もやっぱり待ち遠しいんだな。シティ・ガール。

2010年4月21日水曜日

大学とか、(高等)教育の民営化


教育の民営化は、何につながるのかと、どうしてそれが
いけないのかについてぐるぐる考えているのだけど、

教育の民営化の可能性、みたいなのが気になる。

ぜーんぶ、価値なんてお金で測れるんだよーってして、
いちばんgain currency儲かってるのは、どの学問か(就職につながるって
意味でなら、ビジネスとか?)って見て、
例えば教養人であることを表している(はずの)哲学や、歴史学は
儲かってないってなった時。

歴史や伝統で、学問の価値を測らないのであるとなると、
何を意味するのか。

今もまだあるんだよね?専門高校や、職人の人について、
技を学んで、そのままそれを生かして就職ってか、
それを今度は食べていくのに使うの。

今の経営学とか、商学(部)って、同じようにとらえられるのか。
その後どうやって食べていくかに直結している具合。

昔の全てが良かった昔に戻ろうでもないし、
今があるべき、最高の状態とも思えない高等教育の場、位置づけ。

気になるので、ちょいとメモ。


豆腐ハンバーグ作ったの!

超水切りした木綿豆腐、
しいたけ(Shiitake Mushroomsってね)、にんじん、ねぎ炒めて、
パン粉(パンをトーストしたら出来るのね)、
手でこねこねして、

お醤油、カレー粉、塩コショウ混ぜて、ぽんぽんして、焼く。

美味しく出来た!
って何より、型崩れしなかった!
たまご使わないでも、出来るんだね。
(Veganじゃないです。ベジタリアンでもないです。)

---

アメ史の授業の課題本、On Not Speaking Chinese: Living Between Asia and the West
を、読んでいるのだけど、やっぱりdiasporic intellectualディアスポラの
知識人(なんでこう訳したのか知らないけど、本橋のタイトルそのまんま)は、
好きなテーマってか、読んでいてうんうんなって、だーだー泣かされる。

作者のIen Angは中国系の親を持ち、インドネシア生まれオランダ育ち。
今はオーストラリアで研究していらっしゃるみたい。

Angはどうして中国人・アジア人とidentifyすることが苦手なのかに
ついて、書いてあるのだけど。

中国人に、見た目は同じ中国人なのに、中国語しゃべれないコイツ!
思われ、よって、「同じ」中国人に差別され、みたいな語り、もちろん
納得ってか、よく理解出来るのだけど、

Angは更に、差別され、いじめられているのに、
親には理解されないって、親は同じ中国人同士ならって考えで、
自分の経験していることは通じないであろうって語っているんだ。

自分とシンクロし過ぎていて、もう、ブログ書かずにはいられず。

親の世代は、異国で「やっぱり」頼れるのは同じ人種の
人たちって感覚で。
同じ人種、同じ言葉を話すモノ同士ってだけで、OK牧場な感覚。

でもAngは、オランダ語しか話せない状態だったから、
中国人の人と言葉を交わすことも出来なかったって言ってて。

そうなんだよなぁ、異国でだと、同じ人種、言葉が通じるってだけで、
なんだろう、そこで友達になれない・通じ合えないのは
おかしい、みたいなのがさっぱり理解、、、出来なくないのだけど、
英語が話せるってので、人種関係なく、人と対話出来るあんなには、
同じ人種であることの重要さなんて(分から)ない。

同じ人種でも、生い立ち・backgroundバックグラウンド(「背景」みたいに
なるのかな?でもbackgroundのがしっくり来る)が違ったら、
「敵」とまではいかなくっても、ん、敵になるのかな?

こう、アメリカでの第二波フェミニズムやブラック・フェミニズム、黒人女性の
フェミニズムにおいて、(第一波は)白人の中~上流階級の主婦の
女性しか、解放されてないじゃない!って、語っていたの、

誰かが解放される時、参政権を得るプロセスで、私は更に周縁化され、
言葉(を発する場)を奪われる、って語り。

同じ女性でも(Sojourner Truthの"Ain't I a Woman?"を
読む時のT中Kず子先生は女優)、人種、階層、が違うと、何もかも違うんだよっていう。

もちろん、自分が特権的立場におかれていることは、自覚しているのだけど。

うん、このテーマやっぱり好きってか、通じる人がいるって感じられて、幸せだ。

2010年4月18日日曜日

美味しい朝ごはんが食べたい。

トマト、赤玉ねぎ、フェタチーズ、オリーブ、バジルの
サラダとワイン、良い組み合わせ。

昨日は発表だったよ!

テーマはアメリカ;西洋圏における人種的マイノリティ男性の表象と、
異人種・階級間(恋愛)関係とその可能性、みたいな。

白人女性に対して、いわゆる従属的立場に(一般的に)
おかれているアジア人男性の去勢化と、

その「従属的さ」;"effeminacy"は欲望の対象に
なるのか、欲望されるということは、みたいな。

パネル二つあって、二つに分かれてやってたので、会場には30人前後。

質問はされなかったのだけど、あんなが話した
アジア人男性の表象のされ方について、「表象し得ない存在」、
「そこにない存在」としての表象のされ方って、
masculineな女性にも、ブッチビアンとか関係なく、
応用出来るわよねってコメントを頂き。

キンチョーはけっきょくほとんどせず。ただ残り時間2分(15分の
発表+質疑応答)って教えられた時、少し焦ったけど、
なんとか全部発表し。

先生にも、ありがとう、よく頑張ったね言ってもらい、ああ、
本当にたくさん学ばせてもらって、発表までさせて
もらっているのはこっちなのに、本当に先生は良い人だなー感じ。

終わったあとは、一緒に発表した友達たちと飲みに。

あんなたちの先生は、インド人のゲイゲイしいゲイなのだけど。
むらさきのピンストライプのYシャツとか、
アーガイルのカーディガンとか、
細いピンクのネクタイとか、
柄x柄の組み合わせだったり、
スキニージーンズだったり、
毎回、授業に着てくる服がとてもオシャレなの、アガルよねーって話して。

ゲイなのは分かってるけど、アタシ完全に惚れてるんだけど!って
一人がカミングアウトしたと思ったら、みんな揃ってアタシもー!って。

先生はパートナーはいるのだろうか、いや、
いつもcruising(いわゆるハッテンバ文化)の話してるから、
きっと先生自身、サンフランシスコの映画館やらで
激しくやりまくってるんだろ!話し。

とてもとても、楽しい時間を過ごし。

もう二度と会えないことなんてないのは分かっていても、
あと一カ月もすると、ココでの日常とは、とても離れている場所に
行くんだ、そしてココで繰り返されていたことなんて、あんなが
ココで9か月過ごしてたことなんて、誰も知らないことに
なっちゃうんだって、気付いて、

やっぱり寂しい気持ちに。
たった一年(以下)しか、いなかったってのに。

なんだろう、自分の移動する自由があるところが、
気になるんだよ。
勉強させてもらうだけ、勉強させてもらって、
たくさんの経験を「もらっている」のに、
何も返せていないってか、返せるとでも思ってるのって
ハナシだけど、なんだろ、
ココで学ばせてもらったことを、どう社会化するか、
自分をどう位置付けるか、ってのかな。
あ、ってより、東京に戻ってから、ココでの経験を
どう位置付けるか、なのかな。

シューカツの時とかに聞かれる、とてもかけ離れた
出来事としてしか、覚えておくことないのかなぁ、悲しいなぁ。

よく分からないけど、とりあえず、
ココで勉強したことは忘れないでいたいと、
強く思う。

昨日の夜、ショットやってバー3軒も行ったのに今朝は
元気にジム行って天気良かったから久しぶりにテニスして!

美味しい朝ご飯が食べたいな。
でも卵がない。

2010年4月15日木曜日

ママからムスメへ


Mother to Son

Well, son, I'll tell you:
これだけは覚えておいてちょうだい:
Life for me ain't been no crystal stair.
ママが辿ってきた道だって、決して平らなモノではなかったってこと。
It's had tacks in it,
釘が刺さってたり、
And splinters,
破片が落ちていたり、
And boards torn up,
床がめくり上がっていたり、
And places with no carpet on the floor-
何にもないところだってあったんだから―
Bare.
何にも。
But all the time
それでもいつだってね、
I'se been a-climbin' on,
進み続けたんだよ
And reachin' landin's,
新しい土地に着いては、
And turnin' corners,
新しい角を曲がってみて
And sometimes goin' in the dark
たまには暗い通路や
Where there ain't been no light.
先の見えない方へとも進み続けていったんだよ。
So boy, don't you turn back.
だから振り返ったりするんじゃないよ。
Don't you set down on the steps
座り込むんじゃないよ
'Cause you finds it's kinder hard.
座り込んだってキツイだけでしょ。
Don't you fall now-
つまづくんじゃないよ
For I'se still goin', honey,
ママだってまだ止まっちゃいないよ
I'se still climbin',
ママだってまだ進み続けているじゃない
And life for me ain't been no crystal stair.
ママが辿ってきた道だって、決して平らなモノではなかったのだから。

Langston Hughes

(同時通訳のスピードで訳してみたから大目に見て。師匠のH先生流、意訳です。)


日本時間では今日は、ママの誕生日。

(先学期知った、Essex Hemphillも今日です。90年代に
AIDSで亡くなってるけど、、、泣)

留学していて何が辛いかって、友達に助けを
求められたりした時に、すぐに駆けつけて、あげる
ことが出来ないこともだけど、

こう誕生日とか、幸せを分かち合って、一緒に
嬉しいことをお祝いすることが出来ないのも、寂しいよね。

やっぱり一人だと、美味しい食事にも消極的になっちゃって
行きづらいし、一人で行っても、それを誰かと
共感出来ないと美味しいものも、それほど美味しくなく
感じちゃうし。

(普段から単身赴任中のパパはどうなんだってハナシに
なるよねぇ、、、パパごめんねぇ。)

ママ、お誕生日おめでとう。
今日はダイエット忘れて、美味しいもん食べな!
あんなが帰ってきたら、また一緒に美味しいごはん行こうね!

---

そして今日はあんなが人前で初めて自分の勉強してきた
ことを発表する日です。
(こっちの時間だと明日になるけど)

ママの誕生日と重なって、なんか嬉しいなぁ。

誰かの為にってなると、けっきょくは自己満足でやっている
だけなのに、おこがましく聞こえちゃうけど、自分の経験として、
自分にも関わる問題として、あんなが勉強する動機の一つには、
ママの経験があるから、ってところはある。

つっても、戦争体験とかを語り継ぐような動機とは、
あんながママの経験を語りたい思うのとは、全く違うように思う。
単純にあんなを深く深く愛してくれて(たまには
重く感じることもあっても)、あんなの為に何があっても、
どんなに不安でも、走り続けてくれている、何が
あっても許してくれている、から、
ってなもんだよ。ただのマザコンとも言える。笑

ママの経験してきたことを考えると、
Spanglishを観たり、Rey Chowの本を読んだりした時に感じる、
まだまだ勉強することはたくさんある、
道のりは長い、
じゃないけど、
ああ、まだまだ社会は複雑で、自分の、ママの経験だって語る
言葉さえまだまだ十分じゃないのにって、考えさせられて、
もっと勉強しなきゃって気持ちにつながるのです。

チカーナの母親Floreや、自分のママの様な経験をしてきた、
している、出来るだけ多くの(それぞれの母親が経験してきている
ことなんて違って、universalize一般化するつもりはないけど)
母親たちの強いられてきた決断や、悩んでいることを、
言葉にしたいにも、言葉にし辛い経験を、

社会全体で覚えておかなければいけない・共有されるべき
問題っていう意味で、publicize and politicizeって意味で、
言語化・可視化し、語り継いでいく作業に、少しでもあんなの
研究が意義あれば、それはとても嬉しいことだな、思う。

なので、勉強し、考える原点でもある、ママの誕生日に
初めての論文発表が出来ることは、とても個人的には
symbolicで、緊張するけど、語るしかないって、
思い出させてくれて、幸せだな、と改めて実感しているのです。

2010年4月9日金曜日

publicize.



先学期、抵抗の文学として詩を書いていた
授業(まだAnnaちゃんに送ってない、、、うー)で
一緒になって、今学期もクィア理論の授業を一緒に
履修しているJacksonってお友達がいます。

もうすぐ卒業の4年生。
卒業したら院試の勉強をしながら、ワシントン州の
公共政策をもっと一般の人に理解してもらったり、政治活動の
啓発運動みたいなのに関わったりするそう。
去年の夏ボーイフレンドと結婚したばっかり。

今は学校のEducation Access Coalitionって言って、
教育の機会の不平等さ、大学の予算カットや民営化を
問題視して、デモやら勉強会やら色々やってる団体の
代表として活動してるんだって。

それでその団体のワシントン州の議員さんや、学校の教授らを
交えてのシンポジウムで、あんなも書いた詩を
発表しないかってお誘いが来ました。

で、発表してきました@昨日4/7はEducation Access Day。

会場はそんなに大きくなかったし、100席ほどあった部屋の、
7割ぐらいが、埋まってたかな?そんなもん。

公けの場で自分の詩を読むなんて、なんてなんてなんて。

でも勉強するにつれ、いかに自分が感じて学んだことを
言語化するにしてもしないにしても、なんらかの方法で公けに
すること、自分の経験を語ることの重要性(と、他者のものがたりも
しっかり聞くこと)を実感するようになってきてたのもあって、
語る場が与えられたのだから、って思い、読んできたよ。


聞けて良かったって知らない人に言ってもらえたり
するのは、素直に単純に嬉しいなー。


で、来週には論文を発表させてもらうの。
interracial relationships異人種(恋愛)関係の表象と、
その関係の物象化について書いたの。

コレはクィア理論の先生に誘われて。

こっちは学生と大学教授が発表するの。
小規模なのかと思ったら、パンフを作ったり、色々と大変そう。

(大変さでスケールの大きさを測るのは違うかもだけど)

一年間を通して学んできた、たくさんのことを発表する
機会が与えられて、なんか、嬉しいんだなぁ、恵まれてるよなぁ。

アイシユだけなのか分からないけど、日本の大学は学生が
発表する機会、相対的に見て少ないように思う。

卒業論文をそもそも書かないで卒業出来る大学も多いみたい。

だから超厳しいし、卒論発表会は泣かされる人続出・公開処刑だとも
言われてぐらいだけど、K先生のゼミは学生が発表する
場所があって、K先生はそれを大事にしていて、好きだなー。

発表せねばってなると、批判されることに自分を晒すワケだから、
すんっげえ頑張るし、どういう批判が来るかってとこまで考え
させられるから、自分の書いた文章を客観的に読み直して、
書き直そうってなるし、公けにすることはやっぱり、重要なんだな。

自分の勉強してることを公表する意義として、情報シェアだとか
何とか言う人もいるけど、その重要性は、よく分からん。

人の発表してることには興味ないのかってワケではなく。
人が何を見て感じて学んで、どう考えて、ってのを聞くのは楽しい。
そんな視点があったのかー、同じことを経験してたのに、
そうやって解釈したのね!ってのに、ワクワクする。

ただそれを、お前も同じように重要な情報だと思え!って、
シェアし隊(たい)から要求されているようで、抵抗があるのだと思う。

自己満足のために勉強して何が悪い!とまでは、思ってても、
まぁ、それだけじゃダメだよ言われるのも分からなくないから・社会性の
重要さもあると思うから、言わないけど、オレが今研究してることって
革命的かも!って気分に酔いしれてる人を見ると、なんか、うへえなる。

この研究は革命を起こす!って言われても、
マルクスも毛沢東も出来なかったのに、なんなんだどこからその
自信とやらは発生してるの?!ってツッコミたくなってしまうんだよ。


そういえば大学のお知らせに今年度から、土日も
本館や図書館を開館します・開館時間延長しますと。

きっちり閉館して、セキュリティがっちがちになるのか思ったら!

2010年4月8日木曜日

留学・休学・留年・「ドロップアウト」・休職



すーっごい乱暴なことを書いてみる。
(いつも以上にってこと。)

留学することでも休学することでも留年することでも、

社会からまるごと「ドロップアウト」することでも(で、東南アジアの文化を搾取しに
行ったりするらしいけど、この「社会」からって語りからして、出来るとでも
思ってるのどこで分けてるのさって意味で理解するの難しい)、

休職してみることでも。

そういう少し普通とは違った;逸脱した(ネガティブな意味合いなしに)ことを
行うのにあたって、日本文化の特徴かな、それとも
アメリカや他の国でも程度や対象は違えどあるのかな、

(いや、アメリカは間違いなくBe different just for the sake of
being differentな文化だから、どうだろう)

(日本は)自分の行為の正当化に走る傾向がある。と感じる。

誰だってみんな自分が可愛くって仕方なくって、そうやって
自己肯定に走るのなんてのは、当たり前。

本当に本当に考え込んで、行き着いた決断ならってか、
なんだかんだ言ってその人の選択だから、どうでもいいのだけど。

その自分の行為の正当化が更に進んで、
万人にとっても、正当な行為であるって語り始める、なんて
表わしたらいいのだろ、正当化が行き過ぎてなのか、
自分の行為が逸脱しているってことを受け入れたくないが
為なのか、まぁ、両方なのだろうけれど。

自分の行為を、正当で、更に一般である「べき」って捉えようとするの。


「大学4年間ボーっとして過ごすのってどうかなと思う」
「日本人は働き過ぎなんだよ」
「いったん立ち止まって考えて、遠回りするのも悪くないよ」

(くせして、時間は限られているのだから有意義に有効に使えみたいなことも語る。)

みたいに語って、色々理由つけて来るの。

はるな愛風に「言うよねー」って言ってあげたい。
って、実際に言ってるじゃないか。

じゃなくって、

なんだろう、どうしてありのままの現状を、正しいワケでも間違っているワケでもない、
ただのありのままの現状として受け入れられないの?思ってしまう。

で、ありのままを受け入れて、人に納得してもらわないでも、
自分で正しいって納得して過ごせないのなら、、、何なの思ってしまう。

(ああマッチョ、、、)

どうして何かをするのに(正当な)理由が必要なのだろう。
何事だって単純に好きなら、理由なんて必要ないと、あんなは考える。


どうしてこんなこと書いてるのかって言うと、
ここ最近、よく見かけるのだよ、この風潮を。

で、その逸脱しようぜ!バブルを嫌だなぁと感じるのは、

コレで良いんだよ!むしろこっちのが正しいんだぜ!って、
社会不適合者だぜひゃっほーう!って
(すごい痛々しい感じに)語っているのと同時に、

本当に、ガチで社会に承認され(てい)ないのと、
社会に本当に復帰出来なくなることに対しては、
すごい恐怖感を抱えているような気がするのだよ、逸脱し隊(たい)員たちは。

けっきょく社会からの眼差し、すーっごい気にしてるんじゃん、って。
社会からの眼差しあってこそ、なのかな。

って何より、あんなが何なのさって嫌に感じているのは、
あんながどこでも常にすでに逸脱していることが多いから、
それを物象化されているみたいで、なのだろう な。

カウンセリングとか、精神医療で疑問を感じてる点に似てるように思う。

「あなたはあなた。そのままで良いんだよ!」って言うのと共に、

「(でも)そのままじゃ、ダメ。頑張らないと、努力しないと
良くならないよ!」って言うってね。

頑張らなくっていいんだよ。でも、頑張れ!ってね。うぜええええ。

夜中のおかしな怒りとテンションと色々混じりの乱暴なブログ。
モスバーガーが食べたい。

写真はテキトー。
文章の乱暴さを和らげようって作戦のつもり。