2010年2月21日日曜日

留学とか、

昨日はアイシユから一緒に今の大学に来ているYちゃんと、
「アメリカ留学」について話した。

Yちゃん自身は帰国子女ではないんだけど、ハイアガリだし
帰国子女・英語がネイティブの人たちに囲まれて高校から過ごしてきているし、
Yちゃんも勉強して話せるし、モンゴルとか色んなところに
旅もしているみたいで、アイシユ基準だと普通なんだろうけど、
比較的、同じ国際的な経験豊かな方にカテゴリ化されるタイプだと思う。

「アメリカ留学」のハナシになったのは、Yちゃんが卒論で
扱おうと考えている日本やアジアに多い、おかしな英語ってか、
でたらめの英語が書かれたTシャツとかについて話してたから。

例えば"Happy Sunshine"みたいに衣服にプリントされていても、
誰も別にヘンに思わないでしょう。帰国子女や英語が得意でない限り。

でも「元気な太陽」なんてプリントされてたら、下手したら
「宗教?!」思われてもおかしくないでしょ。

ことばが商品化され、消費される現象を見たいらしい。

英語とかは、なんだろう、Occidentalism西洋への
憧れみたいな色々って感じで語れると思うんだけど。

例えば、沖縄の文化を表す時、ひらがなが使われるのに、
あんなは興味がある。

『ちゅらさん』とか。
「ろかーる」とか(境にある高いけど美味しい沖縄料理屋さん)。

逆だけど、この現象もことばが文化の商品化に加担している感じだと思う。

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そんなことばのハナシから、どうやって「アメリカ留学」の
話題になったのかって言うと。

留学、そして「アメリカ留学」や、「イギリス留学」が何を表しているのか。

どっかで読んだ表現なんだけど、今は留学バブルの時代。
夏休みを利用して短期語学留学なんて、誰だってしてることで。

(和三盆の上品な砂糖菓子とソニプラの色々と、)
一ヶ月間カナダに留学すると書いた手紙を今日、
マイいとこからもらったとこである。

Another Annaちゃんも書いてたけど、今の時代「留学」ってのは、
大学生活・学生の間に誰でも体験することの出来る、
金銭的余裕さえあれば、特に「決心」なんて必要のない行為で。

そんなバブリーなブルジョワ学生の時代に、例えばフィリピンに
語学(ココ重要)留学すること、そしてアメリカに語学留学することが
表わす違いとは、みたいなハナシをしてたんだけど。

フィリピンはアジアで近場で、物価も安くって、比較的、その
留学する「決心」の必要性が少ないオプションとして捉えられている
ところがあると思う。
むしろその「決心」の必要性の度合いの低さこそが、決めてに
なるところも、あるんじゃないかなー思う。

に、比べて、地理的にも文化的にもアメリカやイギリスは遠いし、
いくら語学留学といえども、比較的「決心」の必要な
オプションなのではないか思う。高いし。

一般的な「フィリピンに英語を勉強しに行くんです」に
対するレスは、「近場だね!」みたいな感じであるように想像する。

そして一般的な「アメリカに留学します」に対する反応は、
「本場で勉強するときっと身につくだろうね!」みたい
なんじゃないかなーと考える。

(この場合は語学だけど)留学することが「決心」してするほどのことではなく、
大学生活の一部・延長線上にあってもおかしくない時代に
なってきているのであれば、どこに留学するのでもほとんど同一で(留学は
「手段」みたいな感じで)、そうなった場合、race to the bottom的に
いちばん手軽なオプションをみんな求めるようになるであろうって、
経済学的に考えるとなると思うんだけど。

(あとどこでも同じもんが手に入るって言うグローバリゼーション的にも)

それでもってか、その留学することの気軽さが増す現象と共に、
一つの国に留学するのと、別の国に留学する二つの選択肢の間に
ある差異が創造・想像されて、強調される現象も絶対発生しているように感じる。

ヤングが『排除型社会』で言ってる本質化みたいな。

(まぁ、だって、本来の「留学」が売りにしていることって「本場さ」だものね。)

ある国の文化とか歴史のために留学してるのではなく、語学力を向上させる
ためとか、「手段」としてなのであれば、なんだそれって感じの
差異化のように感じられるけど、でも結局はこれもまた、
西洋への憧れとポスト植民地主義の現象なんだろうなぁと。

あんなの「アメリカ留学」の目的は語学力のためではない。
(たしかアイシユの交換留学のヤツだと、むしろそれはアウト)

それでも(?)留学する前にママに

「アイシユ(日本)で勉強して勉強して勉強して、アイシユで勉強出来ることは全て
勉強し尽くして、次に勉強したいことはアメリカにしかないって言うなら、
あんなが留学する必要性や意義は見えてくるけど、そこんところどうなの?」

って言われたのを覚えてる。
そして正直、何もかも勉強し尽くして今に至っているとは言えない。

語学や文化面で不自由がないから「(十分)
覚悟してなかった」って感覚は、ないワケではないけど、
日常を過ごしていて、すごい考えさせられることではない。

そしてたったの一年間っちゃぁ、一年間という、限られた
期間の留学である。

それでも自分の恵まれている特権的立場について少しでも
意識的に考えることは、あんなの今するべき最低限のことだと思う(Luke 12:48)。

アイシユでもどこでも、勉強し尽くし切っているのに、
その機会が与えられていない人が報われなさすぎる。

何もかも不条理で社会って不平等に出来ているもんでも、。

だらだらと何が言いたいのかもよく分かんない、
ただの恥ずかしい文章になっちゃったけど、
留学しながら、あんなはこんなこと考えてます。

2010年2月19日金曜日

おべんきょ。

アメ史の先生に話しに行って、少しどういうテーマが見えてきて嬉しいな。
がつがつ書こう、良い作品を先生に読んで欲しいって意欲が湧いてきた。

「都市」と「市民権」"Citizenship"とDiaspora「ディアスポラ」を、

ジェンダー・セクシュアリティ、エスニシティ・人種、階層、、、

社会構造の視点から見たいんだけど。

同じジェンダー、エスニシティ、階層でも、"privileged"な人;特権的立場に
いる人と、access権限がexploit剥奪されている人と、一緒に語る
ことは出来ないよ、みたいな。

同じアジア人女性でも、セックスワーカーと高等教育の過程に
いる留学生と、は、同じように語ることは出来ないよって。

特権的立場にいる;アクセスが許されている身体とは、みたいな。

フーコーの権力の理論で、権力ってのはトップダウン方式に
出来てるんじゃなくって色んなところで、発生してるんだよってのと、

(ほら、日本の学生運動の時、裏でおにぎり握ってた、
アメリカ合衆国で70年代にあった、アジア系アメリカ人の
解放運動の時、お茶汲みしてた女性たちの議論。笑・えないけど)

Diasporaディアスポラ、周縁的立場にいる人たちを
一つに括って捉えるのに応用して。

こっちに来る前に、アメリカ大使館でヴィザ取得のプロセスの
時に見た光景、感じ・経験したことについて書きたくって。

アイシユの社会学の先生で移民問題を扱っている先生が、
自分が移民問題を扱うのは、自分自身も、グローバリゼーションの
プロセスの中で、
(フルブライトの奨学金で留学して国際機関で研究して)
移動しているからよみたいに言ってたのに対して、むかむかしてて、
ってのが、主なこのテーマを扱いたい理由。

「都市」の方はまだしっかりと、こうゆーの!ってのは、ないんだけど、
とりあえず、TOKYOでもNYでもSF(サンフランシスコ)でも、
リベラルで先験的って捉えられている都市空間における、排除、
もしくは、そうゆー空間で表象されない身体が気になるの。

NYでアパレル関係の仕事に就いてる白人ゲイの
黒人のセックスワーク、およびワーカーに対する差別、

東京で暮らす、インターナショナルスクールに子どもを
通わせている家庭のフィリピン人女性に対する差別、とか。

自分の中でもまだぐるぐるある感じなんだけど、

(東京のインターに子ども通わせている方は
当てはまらないかもだけど)

森達也の『放送禁止歌』に出てきた歌の一つで、
被差別部落民の文化の歌があって、
歌詞に、となりの町よりは、まだマシだみたいな歌詞があって。

こう、排除されているコミュニティ同士に見られる、
まだお前らなんかよりはマシ;お前らと一緒にされたくない、
みたいな、差別し合う?自分も排除されていて、不安定な立場に
置かれているから、他の誰かを更に周縁的立場に追いやろうとする現象、
ってのかな、が、気になるの。

なんだろう、都市空間では、誰も排除されない、みたいな、
都市空間の表象のされ方(リベラルで、多文化主義で、誰でも受け入れ
られているような)って、おかしいんじゃないの、みたいな。

コレもフーコーの力関係って、トップダウンで、強者・弱者って二つに
分けられないよって理論かなぁ。

ハルバースタムみたいに、逆に「田舎」って、すごいコンサバに
見られてるけど、「監視」とか、「まなざし」の視点から見たら、逆に
何でもアリな空間としてもとれるんじゃないの?みたいな比較まで持ってくかは、
分かんない。むしろ、あんなの議論に持ってきたらごっちゃになっちゃいそう。

あとフーコーの、権力のも、納得いかないとこ。
トップダウンだけではないけど、
でっかい、なんだろ、hegemonic覇権主義的な、
権力関係もあると思うんだよなぁ。家父長制とか。
それこそ、パノプティコン!!!

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なんかね、最初は「宗教」を扱いたかったの。

2年前ぐらいに、『となりの神さま』って本を読んだんだけど。
日本にやってきた異国の宗教を扱ったルポ;
学術的な本ではなく、写真エッセイみたいな感じで。

それを読んだ時、例えば韓国のキリスト教とかも
扱われているんだけど。

「キリスト教」ってメディアではたいてい、西洋の宗教って
表象されていることが多いのに、実際にその国の人たちの
大半がガチで信者のキリスト教って意味では(アメリカは、違う)、
今では韓国がいちばん、Christianで("Christian"って言葉は聖書の
中では一切形容詞として使われていないってのパパ・プチに
叩きこまれたのに形容詞として使っているねぇ)キリスト教信者の
多い国だと思うよって、アイシユ教会の牧師の先生と話している時に話題になって。

なんだろう、「宗教」の表象とかを、見たいなー思ってたの。

他にも、(西洋で大人気の!!!)チベットのダライ・ラマって、
チベット語?(ヨーロッパから見た)東の言語では全然、
"Pursuit of Happiness"的な、ニュー・エイジーな、
スピリチュアル本とか書いてないのに、

英語では超書いてんの。
そして超消費されてんの。
(なんてビジネスマンなんだダライ・ラマ、、、)

そうゆーのを、例えばカルスタの言説分析チックに
見てみるの、楽しそうかなーなんて、思ってたの。

でもぜんっぜん、今んとこ発展してない。
から、とりあえずおいとこって感じ。笑

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先生の研究はTrans-national Adoption、直訳したら異人種間養子。


(異人種間養子をテーマにしたドキュメンタリ。観たい!)

このテーマも気になる。
日本では(あんなが知らないだけかもだけど)養子の文化自体、
あまりポピュラーじゃない思うけど。

あんなが最初に養子の文化に接触したのも、異人種間養子だったし。

香港に住んでた小学生時代。
春休みかなんかに参加したキャンプで知り合った、
見た目は中国人の迷彩柄のTシャツを着てた女の子。

どんな文脈だったのかも思い出せないけど、
お互い8歳前後だってのに、すごいたんたんと、私は
biologically生物学的には中国人なんだけど、家族は
フランス人なの、みたいに教えられたのを覚えている。

そもそも養子のプロセスって、その子の生みの親が
いろいろ考えて、決断して、可能になることだから、
(でなきゃ誘拐ってハナシ)
何が問題かとか、問題なのかどうかも、考えるの
難しい問題(笑)なのは、あるけど。

でも異人種間では白人優位主義的な感覚、
オリエンタルなまなざしは、必ずあって、
無視出来ないことな気がする。

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異人種間養子に関して、ってワケではないけど、
関連したトピックとして、先生がこの事件のハナシを持ち出した。


ハイチで地震によって家族と離れ離れになっちゃったりした
子どもたちを孤児院に移動させようとしていた過程で、
誘拐犯として疑われたアメリカからやってきた白人中産階級の
キリスト教(福音派か、原理主義的などっか)の宣教師たち。

「救ってあげよう」としていたのに、「拉致」してたのでは、と。

ハイチ政府・警察がこの宣教師たちを疑ったのは、実際に、
子どもたちの拉致が起こっているからで。

このアメリカの宣教師たちによって、救われていたかも知れないし、
(ここがいちばん問題なのだけど)宣教師たちだって、良かれと思って、
わざわざハイチまで来てたワケだけど。

でもその子どもたちを「救ってあげる」っていう態度の表れは、あるよねぇ。

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夜(中)に考えごとはいけない。

明日の朝これ読んで、あちゃーなるんだろうなぁ。

最後に、同じクラスで、ハリウッドにおけるアジア人女性の表象を
研究してる日本人とアメリカ人のハーフのお友達が教えてくれたの。


Mail Order Brideって言って、ネットやカタログを通しての
お見合いみたいなのがあるんだけど、アメリカでは主に異人種間のを、指すのね。

それのパロディ。こうゆー抵抗の文化、好きー。

2010年2月17日水曜日

Time to Pretend.



シアトルのフリーモントFremontって地区にあった可愛い古本屋さん、
Ophelia Booksのウィンドウ。

シアトルに三連休中行ってたのだけど、移動中、この間亡くなられた
サリンジャーの"Franny and Zooey"『フラニーとゾーウィー』読みました。

true confessionsココだけの話、初サリンジャーです。

前半は妹のフラニー、後半はお兄ちゃんのゾーウィーと
フラニーの二人って感じで、200pg程度の短い作品。

フラニーは、何事にも意味を求めているうちに
ボーイフレンドとは喧嘩し、ごはんも食べれなくなっちゃって、
寝込んじゃう女子大生。

アイビー・リーグでラルフ・ローレンなボーイフレンドと
彼の愉快な仲間たちがとても不愉快で。

役者でお兄ちゃんのゾーウィーはそんなフラニーに、
おめーにとって意味はなくっても、だからって価値のないこと(行為)になるのか?
ものごとに意味ばっか求めててどうするんだ?って、

見返りを期待しない、求めない態度、かな、
について話すの。
祈るなら、そうやって祈れって。

"...that fat lady...it's Christ Himself....."

こう書いてると、とてもなんだろう、アメリカのプロ倫が
表れているのかしら?って感じに思えるかもだけど。

なんだろう、ゾーウィーがフラニーに「意味」なんてくそくらえだ!、
「意味のないことばっかやってる」周りの友達たちを見下して
おめー超生意気なんだよ!って言ってるのは、
ゾーウィーがクリスチャンで、無駄なことなんて一つとしてなくて、
何事にも意味があるって思ってるワケではなく、

逆に、ゾーウィーはガチでものごとに意味なんてないって思ってて、
それでも、so what?みたいな感じで、それでもラジオ番組に
出るためにでも、靴をキレイに磨くんだって、
フラニーにさっさと人生なんて意味のないことの繰り返しなんだって
気付けよって、

意味のないことの繰り返しだけど、意味があるように
振る舞うことこそが、重要なんだって、
ゾーウィーは思ってるからなのかなぁって感じた。

(ついでに、そうやって意味があるかのように振る舞うのに
必要なのは、that fat lady程度で十分なんだって。)

"we are fated to pretend"なんだって(MGMTが最近大好き)。

ものごとには意味があるんだって態度を装ってないと、
そうでもしないと、
森の中に籠りに行っちゃったお兄ちゃんや、
自殺しちゃったお兄ちゃんたちみたいに、おかしくなっちゃうから。

(ああ、ゾーウィーが役者なのって、ゾーウィーは
役を装うことを仕事としているってのも、あったのかなぁ。)

宮台真司の『美しき(と思われる)少年の理由なき自殺』に
出てくる二つの世界観、

「人生には意味がない。でも楽しい。」
「人生は楽しい。でも意味がない。」

ってのを思い出した。
(宮台嫌いだけど。)

ゾーウィーは「人生には意味がない。でも楽しい。」派で、
自殺しないで済むタイプ。
たぶん、キリスト教でもイスラームでも仏教でも、
宗教って人にものごとには意味があるんだって信じさせるために
役立つし良いよねーって思ってるんじゃないか。

妹のフラニーが可愛くって、フラニーにおかしくなって
欲しくなくって、、、


太田の『フラニーとゾーウィー』の解釈。
「未熟」さ、か。

他にもこの一家の兄弟について書かれたのあったの知らなかった!
読もうー。

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こっちに来る時の一つのテーマに、

「アメリカの文学をアメリカの土地で経験*しながら、アメリカ文化の理解を深める」

ってのがあったのだけど。

*"expose myself to"を意訳したつもりでの「経験」。日本語オカシイノソウテイナイヨ。

前から読みたかったユダヤ系アメリカ人のGrace Paleyの短編集と、
黒人でゲイの詩人のLangston Hughesの詩集と、、、

思い出せる限り、その程度しかアメリカ文学読んでません。
ああ何してるんだろうねぇ。

(だいじょうび、まだ三カ月あるっぴ!!!)

ガルシア・マルケズ読んだり、
夏目漱石読んだり、
村上春樹読んだりしてた。あれれ。

2010年2月10日水曜日

おべんきょ。

ガツガツ勉強するヒマもないぐらい、課題が
すごい大変な今学期。

アメリカ政治思想史はピューリタンの思想を見たりしてるとこ。

どうアプローチすれば良いのかが分かんない。

文献読んで、それがどうアメリカのリベラリズムとか個人主義とかの
表れかを、見るんだと思うけど。

イギリス・ヨーロッパの思想の影響を受けていても、
やっぱりアメリカの政治思想の形成?に大きく影響してるの、
無限に広がる、誰にも支配されていない(と思われていた)
「土地」ってあると思う。

そこらへんのことについて、書きたいかなぁ。

クィア理論の授業も、「土地」ってか、「空間」が気になる。

公・私に分けられている空間について、、、
色んな階級・エスニシティ・ジェンダーの個人同士が
交わる、「クィア」な都市空間、

でも監視とか(ミシェルの)、まなざし(の有無)の視点から
考えると、すごい窮屈で、

何もかもを消費しているだけかも知れない、

たくさんのモノを排除することによって成り立っているって
言う風にも考えられる、都市空間、、、

アメリカ史の授業も、ナショナリズムとか、市民権?citizenshipに
ついて勉強してるんだけど、コレも、都市空間を見たいかなぁ。

それがね、TOKYOについて書かれている、
こんな記事をあいりん経由で見て。

まぁ、TOKYOシックになったのはおいといて。

このサイト、TOKYOの他に、
バンコク、香港、ムンバイ、上海、シンガポールに
関する記事もあって。

で、どれも"City"ってなってるんだけど。

香港とシンガポール、どっちもちっちゃい国(家)だし、
シンガポールとかcity-stateって表されている時も
あるけど、"City"じゃなくって、国家だから!
って気になって。

で、他の東京、バンコク、ムンバイ、上海、、、について、
考えて見た時、これらの都市って、その国全体との格差が
すごい激しい都市だよなぁ思い。

(都市が魅力的≒国家全体における格差が激しい?)

出来れば、都市空間で暮らす人の、「国民」としての意識とか、
んーよく分かんないけど、授業で出てきたテーマで、
国家と市民権を、どの様に解釈していくかで、
"flexible citizenship"ってのが、出てきたんだけど。

外交官とか、政治的・経済的権限?が与えられている
人たちって、もしかして"flexible citizenship"ってのがすでに
与えられているのでは?って思い。
そういう人たちで、更に都市空間で暮らす人の、国家との関係とか。

どうして都市が重要かってのは、例えばホテルのHoliday Innとか、
東京のでもバンコクのでも、全く同じ「価値」が提供されていて。

(都市なら)どこにいても、何でも、同じものが、
手に入るって感覚が気になるの。
都市間で、「価値」が普遍化されていってるのがあると思うの。

そんな価値観を持った人たちの、ナショナリズム、みたいな。

比較公共政策の授業は書いたっけ、
アメリカの環境問題に関わる公共政策を担当することに。

でもアメリカの「環境問題に関する政策」って名の下で、
移民(問題)に関係している政策が、たくさんあって。

そんな感じ。

おじいちゃんたちにバレンタインデーのチョコを贈るのと、
もうすぐ卒業の10の先輩たちにもカードを書いてて、
アイシユの図書館が恋しくなったり。

今週のアメリカ史の文献で、「ハーフ」の子どもの存在が
扱われているんだけど、「ハーフっていいなぁ」って、見た目だけで
言ったりするのって、すごい暴力だなぁと今さら思い。

あと今月号のCOURRIER JAPON読みたい!!!

堤未果さん美人ー。

2010年2月4日木曜日

avocado maki with wasabi peas.


こっちに来てから、日本ってか東京の便利さ、

ハイチではなくアメリカにいるワケだけど、
東京のモノの質と価値が本当に良いって
意味での物質的豊かさ、

(もちろん、ほとんどママと二人暮らしだけど、家族と
一緒に暮らしていることの気楽さ?も)

やっぱり感じることが多く、
もしかしてあんなってナショナリストなのかも?って
心配になるほど、

(誰だって程度は違えどそうなんだけど)

離れているほど、「自分の国」を意識するもん
なんだなぁと、実感している。


2月3日、今日は節分です。

東京で生活していても、そんなに意識しないのに、
わざわざエイリーとアボカド巻きを作り、
ベジタリアンエイリーのわさび豆?を
ぽりぽりと、20粒食べてみたり。

今日のナショナリズムを扱うアメリカ史の授業が超面白かったから、
それについて書きたいのだけど眠気か、、、